「百年の遺産--日本近代外交史」 岡崎久彦(1)【歴史を曇りない目で】その時代の尺度での真実を(産経新聞2002年4月1日掲載) ペリーの来航(一八五三年)から、日本の敗戦、占領の終わり(一九五二年)まで、ちょうど百年になります。 この百年は、いわば、現代の日本にとって少年期、青年期の人格形成期にあたります。 この百年を曇りのない目で見つめることによって初めて、現代の日本も理解でき、将来の日本も見えてきます。 ところが、敗戦後しばらくは、こんな基本的な認識さえ失われた時期もありました。つまり、現代日本の原点は敗戦の焼け跡にあり、それ以前は考えるに価 (あたい)しない忌まわしい過去だという考え方です。 これは、戦後二十年余を経て、司馬遼太郎が『坂の上の雲』で明治を語り、人々が「ああ、日本にもそういう時代があったのだ」と郷愁と畏敬(いけい)の念をもって過去を想い出すようになるまでは、少なくともマスコミ、評論次元では一般的な感じ方でした。 (昭和43(1968)年から昭和47(1972)年にかけ4年3ヵ月に渡って産経新聞に連載された。1999/01文春文庫化。いわゆる「司馬史観」の登場) 今はもう、そういう考え方の人はほとんどいなくなりました。 しかし、一口で歴史を曇りのない目で見る、と言っても、それこそが歴史を書く場合の永遠、かつ究極の課題であり、決して容易なことではありません。 しかも日本の近代史は、今まで様々な偏向史観で引き裂かれてきました。 まず、明治維新の歴史は、必然的に勝者の史観、即ち薩長史観が優勢でした。 封建的な古い日本が維新で一挙に打ち砕かれ、夜が明けたようになったという史観で、大筋ではそうも言えるのですが、日本民族がそれまで千年間培ってきた文明、とくに江戸三百年の高度の文化と歴史の継続性を軽視する弊害がありました。 それはアメリカの占領で夜が明けたように日本が民主化したという占領史観とも、勝者の史観という点で共通する所がありました。 その後、大正から昭和の初期まで、すべての史論が許された自由な時代がありました(大正デモクラシーの時代)が、やがて国内、国際社会の緊張が高まるにつれて(ちょいと可笑しな「コジツケ神懸りの」w)皇国史観が強くなり、非常時体制の下で、その他の史観が封殺されます。 当時は、豊臣秀吉や北条泰時などの歴史的業績を讃える際に、皇室を尊崇したことが強調されました。 秀吉、泰時が偉大だったのは、別の理由からでしょう。 それは戦後のTVドラマが徳川家康や北条時宗について、歴史上の事実かどうかさえ疑わしい、その平和主義(モンゴルからムゴイという言葉が生まれたとまで言われた徹底殺戮の時代にw)を讃えているの同工異曲の偏向史観でした。 そして、占領中は厳しい言論統制(この事実さえも、はるか後年に江藤淳氏が3部作著して初めて明確になったような始末w)で、東京裁判と占領政策の批判は許されなくなります。 東京裁判(史観)は、満州事変以降の日本は一貫して侵略的であり悪であって、その行動は暴虐を極めたという史観であり、また、占領政策は、過去の日本は軍国主義的専制国家であって、これを占領軍の力で軍事力否定の平和的民主国家に作り直したのだ、という史観に立ち、それに対する批判は封殺されました。 このアメリカの政策は、冷戦の激化に伴い、日本を軍事的に信頼できるパートナーに育てようという政策に変わります。 (占領時代も「前期」と「後期」に分かれる) ところが、この占領初期の偏向史観は、日本を軍事的に弱体化させることが最大の目的である共産主義勢力の戦略と完全に一致したため、占領が終わっても、今度は、国際共産主義勢力や日本国内左翼によって、温存、増幅されて国民に深く浸透し、いわゆる戦後日本の偏向史観が形成されます。 この史観を背景として、六〇年安保、七〇年安保の反政府運動が荒れ狂い、それがおさまったと思うと、八〇年代に入って、いわゆる自虐史観という形で、今度は外国の干渉を日本側から誘って呼び込む形で再燃します。 (アサピィ~の「ご注進報道」ってヤツだネw) 他方、とくに左翼偏向していない一般の人々の間でも、戦争と敗戦の惨苦があまりひどかったため、史論と言えば「誰があの無謀な戦争を始めたのだ」「何が悪かったのか」という歴史の善悪是非論が繰り返されています。 歴史学の泰斗ランケは言っています。 「皆さんは歴史から教訓を学ぼうとされるが、私はそんな大それたことは考えていない。ただ歴史の真実を追求するだけである」 (つまり、実証史学は「歴史を鑑(かがみ=手本)」にする、なんてな発想とは丸っきり違うのよっ!ってことw) 歴史というのは、国家と個人がそれぞれに力の限り生きてきた営みが集まった大きな流れです。 戦争も平和もその中に生じます。 その間、戦略の是非、外交の巧拙はあっても、倫理的な是非善悪は論じ得べくもありません。 この連載の目的は、歴史の真実、それも私の能力の及ぶ限り、バランスの取れた真実を追求することしかありません。 そして、歴史がその時代の人々の努力の集積であるならば、その時代の人物を、現代の尺度でなく、その人が生きていた時代の尺度に合わせて見つめ、その努力の軌跡を追うことによって歴史の真実に迫るのが正攻法でしょう。 それはまた古来の史家の伝統的な手法であり、歴史が人間のものである以上、それしかないのでしょう。 ここでは、日本の外交を中心に、日本の近代外交史を論じるので、おのずから、陸奥宗光、小村寿太郎など、その時代の外交を担った人々の軌跡を中心に追いつつ、その時代を捉らえ、歴史の真実を求めていきたいと思います。 (2)【陸奥宗光の生い立ち】「才学双全」は刻苦勉励の結果 (産経新聞2002年4月2日掲載) 朝誦暮吟(ちょうしょうぼぎん)十五年 飄身漂泊(ひょうしんひょうはく)難船に似たり 他時争い得ん 鵬翼(ほうよく)の生ずるを 一挙に雲を排して 九天に翔(か)けん --古典や詩文を学んで十五歳となった。難破船のように身を寄せる所もない。しかしいつの日か、他との競争に打ち勝って、鵬(おおとり)の翼を得よう。一挙に雲をつき破って、大空を翔けめぐるのだ。 これは陸奥宗光が数え年十五歳の時に、苦学のために江戸へ旅立った時に賦(ふ)した詩です。 今で言えば、中学二、三年の少年の作です。 しかもそれはただ漢詩の体(てい)をなしたものを習作したというだけでなく、当時の陸奥の感慨を正確に歌い上げたものであり、また、陸奥はまさにこの詩で決意した通りの一生を送っています。 陸奥もまた、新井白石から吉田松陰に至る、江戸時代が生み出した早熟の天才達の系譜に連なる人物の一人だったと言えましょう。 当時の陸奥一家は、詩にある通り、落魄(らくはく)していましたが、元は紀州和歌山藩の名門です。「陸奥」という名は宗光が自ら名乗った名ですが、元は伊達という上士(じょうし)の家でした。 徳川八代将軍吉宗が紀州藩から出て以来、歴代将軍は悉(ことごと)く紀州家となり、江戸時代後期の紀州藩の威勢は大したものでした。 紀州侯の江戸往復の際、沿道の庶民は平伏しなければならず、「表の行列なんじゃいな、紀州の殿様お国入り」と歌われた通りの盛儀でした。 その紀州の上士ですから、徳川時代のエリートです。しかも宗光の父、伊達宗広は桁(けた)はずれの大秀才でした。 漢籍は当然のこととして、国学、和歌でも一家を成し、晩年には仏教や禅を究め、また歴史家としても、後に内藤湖南が日本の五大史論の一つに数えている『大勢三転考』を著して、ひそかに幕府の滅亡を予言しています。 他方役人としても若い時から抜擢(ばつてき)と出世を重ね、テクノクラットの最高位ともいうべき勘定奉行となり、藩の財政再建に大いに実績をあげます。 時は江戸文化最後の華、文化、文政、天保の時代で、宗広はその社会的成功とありあまる才気で、わが世の春を謳歌します。 十八世紀ほど西欧でも、清国でも、日本でも、人々が永久に続くと思われた社会秩序を信じ、人生の優雅さを尊重した時代はないと言います。 しかし、その典雅と華美の時代は、フランス革命で一転して、革命と硝煙、英雄と志士の時代の十九世紀となります。その歴史の潮流は半世紀遅れて、阿片戦争とペリーの来航で、極東の門口まで来ます。 宗広の失脚は、まさにペリーが日本に向かって航行している時期でした。宗広を重用した紀州国元の老公(舜恭公)が死ぬと、たちまち宗広は政敵に追い落とされ、自らは幽囚の身となり、家族は禄を奪われて城外に追放という苛酷な処分を受けます。 この時宗光は十歳でした。 周囲に権勢を誇り、特権意識をもった家族が急に没落し、富も権力も一朝にして去り、しかも一家離散となる。こうしたことは少年でも、あるいは、自分の力ではどうすることもできない少年ほど心に深く響くものでしょう。 この時以降、陸奥の人生は勉強と努力の連続、今の言葉で言えば、ハングリー・スポーツの一生でした。 後年、反逆罪で五年間収監されますが、その時夫人にあてた手紙では「一昨年来、毎朝八時から夜は十二時まで読書して一日も怠ったことはありません。大いに面白く楽しく、春の日(は長いというが)も短いように感じ、独り寝の夜(は長いというが)もちっとも長いとは感じず、退屈するということは全くありません」と書いています。 宗光の長男広吉は、「世の人は父のことを頭脳の人と言うが、私はそれだけとは思わない。あれほど刻苦勉励すれば普通の人でもあそこまでいき得るのではないかと思う。……父の遺した教訓の一つに、夜眠れない時は、何か一つ持ち出して考えてみるものだ。その考えは他日きっと役に立つ、というのがあるが、父は平素これを実行していた」と回想しています。 陸奥は才学双全の人という評価があります。才能がある上に努力家だったということです。 幕末維新は、現代人の限られた人生経験では想像もできないような、本来相容れないはずの二つの性格の長所を兼ねた人物を生み出しています。 西郷隆盛は生来小心で感傷的な性格でありながら、大度量、剛腹な人物となり、伊藤博文は目先の利く実務家でありながら、明治憲法の思想的柱石となります。 現代人のとうてい及ばない教養で古人の哲学と経験を学び、かつ大変革期を身をもって処し、その間人格識見を陶冶(とうや)、成長、変革する機会を何度も与えられたからでしょう。 才学双全という表現の裏には、才子学ばず、という言葉があります。才能のある人はえてして努力しないという意味です。宗光も、もし十歳の時に一念発起する機会がなかったならば、その性格から言って、万事才気と口でごまかして、ガリ勉の徒を嘲笑するような人になったことは想像に難(かた)くありません。 それが運命のいたずらで、本来なら性に合わない刻苦勉励を自らに課したため才学双全の人ができあがったのです。 (3)【世界でも希な文治社会】教養人生み 近代までの礎築く (産経新聞2002年4月3日掲載) 江戸留学を志した十五歳の陸奥は、もとより旅費もないので、高野山の老僧が江戸に行く供(とも)として東海道を下り、江戸についてからも書生をしたり、筆耕のアルバイトをしたりしながら安井息軒など一流の漢学者について勉強します。 男児志を立てて郷関を出(い)ず 學若(も)し成ら無くんば死すとも還(かえ)らず …… 人間到る処(ところ)青山あり 青山はお墓のことです。今でも韓国では、青々とした芝を植えた土葬の盛り土が見られます。 一人前の学者として認められるようにならなければ、おめおめ故郷に帰らない。他郷に骨を埋めるという覚悟です。 スパルタの若者が戦いに赴く時、母親が「汝(なんじ)、楯(たて)を掲げて(勝利を誇って)還れ。しからずんば、楯に載りて(戦死者は楯に載せる習慣)還れ」と言ったのと、文武の違いはあれ、同工異曲です。 元和偃武(げんなえんぶ)(一六一五年、元和元年の大坂城落城)以降、それまでのように武勲で出世する途を絶たれた武士階級としては学問で身を立てるのが若者の夢となりました。 現に、新井白石や荻生徂徠は、ちょうど陸奥と同じように、親が主家を逐(お)われて、青春時代を貧窮の中に過ごしますが、刻苦勉励して大学者となって、時の将軍を補佐して権勢を振るいます。 儒学というのは、畢竟(ひっきょう)は国を治めるための学です。その儒学に最も優れた人を、政府も世間も尊敬し、その教えを乞うという政治社会制度が生きていたのが、徳川時代です。その結果、世界史でも稀な文治社会が出現しました。 安岡正篤によると、世界史で最高の文治社会は後漢の二百年と徳川の二百五十年でした。 それだから、その直後の三国時代と幕末維新の時代は、活躍する人物が皆一流の教養人であり、その言動が一つ一つ味わい深く、その歴史が面白いのだそうです。 後漢(二五-二二〇年)の初代光武帝は、武力で天下統一を果たしながら、武事を厭(いと)い「天下未だ平らかならざるに、すでに文治の志あり」と十八史略にあります。そして光武帝を継ぐ歴代皇帝は努めて賢人を登用しました。たしかに三国時代の諸葛孔明も、曹操も、また維新の西郷隆盛も勝海舟も現代人が及びもつかない教養人です。 この江戸時代の教養主義の伝統は、明治以降も敗戦まで、いわゆる旧制高校などに脈々として受け継がれてきました。 江戸時代の教養主義の一つの大きな成果は、中国の古典文明を、日本的な徹底的な完全主義(パーフエクシヨニズム)で吸収したことです。 今でも中国ではなかなか手に入らないような、完全な出典別の注釈のついた古典のテキストが、日本では本屋の店頭で容易に入手できます。 また原文の意味をいささかも違(たが)えることなく、完全な日本語にした訓(よ)み下(くだ)し漢文も完成させています。 こんなことは世界史でも稀でしょう。この背景があるからこそ、明治維新後、政治、経済、技術、文学、哲学に至るまであらゆる外国の文献を吸収消化できたのです。しかし、近代のドイツ思想の翻訳文の生硬さなどを見ると、まだ徳川時代の漢文消化の域に達していないように思います。 江戸留学初期の陸奥の勉強が本物だったことは、その後の陸奥の著作を見ると明らかです。 陸奥が獄中で著した『左氏辞令一斑(さしじれいいっぱん)』は春秋左氏伝から、近代外交の参考になる巧みな外交的表現の挿話五十五を紹介したものです。 左氏伝は今は読む人はほとんどいませんが、荻生徂徠が「何を読んだら良いでしょうか」と訊(き)かれて、常に真っ先に推奨した本です。 福沢諭吉は「大概の書生は左氏伝十五巻の内、三、四巻でしまうのを、私は全部通読、およそ十一度読み返して、面白い所は暗記していた」と自伝に書いています。 当時の人の勉強が質量ともに現代人の想像を絶しているものだったことがわかります。 とくに昔の人は「読書百遍意自ずから通ず」と、同じ本を繰り返し読むことの大事さを知っていました。そのためには寝食を節しても勉強の時間を創り出さねばならなかったでしょう。 新井白石が、少年時、一日の勉強の予定をこなすために、寒中に井戸水を浴びて眠気を覚ましたという故事もあります。こうした厳しい競争でできた文治社会ですから、現代人がなかなか及ばないのも当然です。 また、陸奥が入獄前に脱稿した『資治性理談』を読むと、陸奥が、宋の朱子学、荻生徂徠の学、そしてイギリス人でもなかなか読破できない難解の書、ベンサムの『道徳及び立法の諸原理序説』を精読し、噛み砕いて自分のものにしていることがわかります。 「資治」とは、政治に資する、ということです。陸奥にとっても、学とは、世を治める学であったわけです。 もし、徳川の平和がそのまま続いていたならば、陸奥もまた、新井白石や荻生徂徠のように、漢学で一家を成し、廟堂(びょうどう)にのぼって天下の政治を掌(つかさど)り、故郷に錦を着て還る志を果たしていたのかもしれません。 (4)【激動の明治維新】「志士と英雄の時代」が到来 (産経新聞2002年4月4日掲載) 陸奥が勉強にいそしんでいる間に時代は大きく変わります。 陸奥の父宗広追放後、伊達家が一家流浪の苛酷な処分を受けるのはペリー来航の年(1853)、陸奥が江戸に出たのは安政の大獄の年(1858)です。 そして、その二年後に、井伊大老暗殺のために佐野竹之助が水戸を出て江戸に向かった時の詩は、同じ郷関を出るにしても、もう陸奥の詩とは違っていました。 決然国を去って天涯に向かう 生別また死別を兼ねるの時 弟妹は知らず阿兄(あけい)の志 慇懃(いんぎん)に袖をひいて帰期を問う (お兄さんは何時(いつ)帰るの?と訊いている) 苦学して学者となり故郷に錦を飾ろう、という徳川の平和の時代はすでに去り、国を出る時は命を捨てる覚悟だという、志士と英雄の時代がきたのです。 江戸にいた陸奥は、このすべての歴史的変化を肌で感じていました。そして、やがて、自ら「蛍雪苦学(けいせつくがく)の志を絶ち」天下の志士たちと交流して国事を論じます。 人物がいると聞けば百里の道を遠しとせず会いに行くのが東洋の伝統です。陸奥は、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、土佐藩の板垣退助など当時既にひとかどの人物であるという噂の高い人物たちの門を叩きます。伊藤博文ともこのころ会っています。 徳川幕府の崩壊はペリー来航に始まります。 日本の開国を迫る欧米諸国の近代的武力を前にして、これに抵抗し得べくもないことは、国の政策を現に担当している幕府当局者にとっては自明のことです。 しかし二百年間鎖国を国是とし、人々が開国を受け容れる用意がない時に幕府が開国を独り断行するのは政治的に困難でした。そこで国内のコンセンサスを得ようとして諸侯の意見を求めます。 これが幕府転落の第一歩となります。それまで、事の大小となく、誰にも諮(はか)らず、譜代大名出身者だけの幕閣で決めてきたのを、外様大名を含む外部の意見を徴したことがすでに専制体制の基礎を揺るがします。 フランス革命の発端が、財政困難を克服する税制上の措置について貴族達の合意を得ようとして、百八十年間開いていなかった三部会を招集したことにあったのと同じです。 そして、広く意見を徴しているうちに、朝廷の勅許を得ようと考えたのが結果として命取りとなります。 そもそも武家は七百年間朝廷から権力を奪ってきたのですから、これに発言権を与えるのは重大なことです。 当初幕府は勅許などは形式的なもので、すぐ取れると思っていたようです。ところが、朝廷とその周りの志士達で攘夷論(じょういろん)が強く勅許はなかなか下りません。 そこで幕府は、やむを得ず、勅許なしでアメリカとの通商条約締結に踏み切りますが、いったん幕府外の人々にまで政策論議を許してしまった以上、時の将軍継嗣問題など他の政治問題もからんで世論が沸騰します。 そこで安政の大獄で反対派を弾圧しますが、それがまたかえって反発を呼び、幕府の中央統制力は弱まっていきます。 そしてついに武力で反抗する長州の征伐に失敗して、もはや徳川幕府を維持する実力もないことが明らかになってきます。 こうなると、徳川家としては最後は朝廷と協力して事態を収拾する、いわゆる公武合体という妥協案しかなくなりますが、その前提として、大政奉還を行ったのが幕府の命脈にとどめをさします。 そうなると徳川家は単なる一大名に過ぎなくなるので、鳥羽伏見で薩長連合軍と衝突した後、各藩は、朝廷側か徳川側かと迫られると、お家の安全のためには朝廷側に帰順せざるを得ず、たちまち天下の権は天皇を戴く薩長の手に移ります。幕府崩壊の過程を一口で言えばこういうことです。 この疾風怒濤の五年間(1853~1858)、陸奥は、坂本竜馬にその将来を嘱目(しょくもく)され、勝海舟の海軍操練所、竜馬の海援隊に入って、国内、国際情勢に目を開き、攘夷論を脱して、それが一生変わらぬ信念になる開明思想を得ます。 鳥羽伏見の戦いの直後、誰も先の見通しを持たなかった時期に、陸奥は「独り天下の形勢に察するところあって」、英国公使パークスを大坂に訪れ、その結果を京都に帰って岩倉具視に意見書として出します。 内容は、今後は開国進歩主義を取る他はなく、まず、王政復古と開国政策を内外に闡明(せんめい)するということでした。 岩倉は全面的に賛成しました。 王政復古した以上外国との正式国交の当事者となるのは当然のことですが、そのためには今までの攘夷の姿勢を捨てねばなりませ。 そこで鳥羽伏見の戦い(1868年1月)のわずか五日後、明治新政府は外交文書で各国公使館にこれを通告し、国内には、「大勢まことにやむを得ず、この度朝議の上断然和親条約取り結ぶ」旨布告しました。 その翌日、岩倉は陸奥を外国事務局御用掛に任命しました。 一緒に任命されたのは、伊藤博文など薩長の錚々(そうそう)たる俊秀ばかりで、その中で(親藩紀州上士出身の)陸奥は最若年の二十五歳でした。これは陸奥独りの判断と行動力でかち得たものです。 (5)【藩閥の専制】帰郷して藩の近代化に成功 (産経新聞2002年4月5日掲載) ここでは従来の、維新の勝利者側の史観ではあまり取り上げられていない歴史に触れなければなりません。それは、自らもう一度省みても、陸奥に対する依怙贔屓(えこひいき)からではありません。 藩閥専制の問題を避けて通っては、明治の自由民権運動も、国会開設以降原敬に至る二十数年の民党の苦闘も理解できないからです。 それが従来の、大正デモクラシーに対する不当に低い評価の一因であるとも思われます。 すべての革命がそうであるように、革命当初は誰もがバラ色の新世界を夢見る時期があります。 西郷隆盛が江戸城を攻めようとしている時に、留守の新政府が、五箇条の御誓文で「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と、民主主義の神髄を見事に表現したのも当時の雰囲気を示しています。 しかし、革命が成功して時が経つにつれて、政治権力は新しい実力者によって掌握され、それに従おうとしない分子は、疎外され粛清されるのは、二十世紀の多くの革命を見てきたわれわれの世代が良く知っていることです。 外国事務局の陸奥は、持ち前の才能を発揮して業績を上げます。 箱館(函館)攻略はじめ長い期間明治新政府の主力艦となった東艦(あずまかん)を、幕府側でなく朝廷側に米国から引き渡させる外交交渉に成功し、また、買い取り資金の調達までしたのは陸奥の働きです。 しかし、新政府の人事が藩閥偏重となるにしたがって陸奥の憤懣(ふんまん)は高まり、また、維新の改革を進めるには、藩を廃して郡県制にしなければならないという、正論を進言しても受け容れられず、ついに新政府を離れて故郷和歌山に帰ります。 陸奥の胸中にあった計画は壮大なものでした。 新政府が動かないならば、和歌山藩をまず改革して、プロシャ式の近代的軍事国家を創り出そうということです。 鳥羽伏見の戦いの後、関西の諸藩は一斉に朝廷側に靡(なび)きますが、和歌山藩は徳川との深い関係でそうもいかず、鳥羽伏見の敗兵を和歌山に収容し、手厚く関東に送り返したりして朝廷側の印象が悪く、一時は滅亡も危惧されました。 陸奥は岩倉具視を説いてこれを救い、その代わりに和歌山藩改革の全権を得ました。 改革は開明的な蘭学者津田出を中心に一気呵成(いっきかせい)に行われました。 侍の特権を廃して刑法の適用を平等にし、官僚機構の頂点たる勘定奉行に民間人のヤマサ醤油の浜口梧陵を任命しました。 最も抜本的だったのは侍の家禄を二十分の一に削減して改革の財源を捻出したことです。 その時の通達では、本来家禄というものは国家に仕(つか)え民を治めるためのものであって私(わたくし)すべきものではないと心得よ、と申し渡しています。 兵制は、一家の跡継ぎを例外として、士農工商を通じ平等に適用されました。 こうして創られた軍隊は、明治四年に解散されるまでに、歩兵六個連隊、騎兵一個連隊、砲兵二個連隊、工兵一個連隊、二万人近い精鋭となり、弾薬製造所では毎日一万個ずつの弾丸がドイツと同じ工程で生産されていました。 この改革はセンセーションを呼び、英、米、独の公使は和歌山まで参観に来ました。 薩摩からは西郷従道が来て、やがて村田新八が来て、西郷隆盛が来たいが来られないので、話を聞きたいからぜひ上京して欲しいと津田に伝えています。 薩長の受けた衝撃は想像にあまります。 (こんな事実は、初耳もいいところw 「薩長史観」や恐るベシ。同様に、「東京裁判史観」だよなぁ) 薩長は維新の功で加増を受けていますが、それでも万単位の軍隊を出すことは困難です。 紀州の場合は、一歩誤れば朝敵として藩が滅亡する瀬戸際までいったので、禄を二十分の一にし、四民平等にする改革もできたのですが、とくに士族の国薩摩にそんな改革ができるはずがありません。 陸奥自身、紀州十万の兵を出すこともあえて難(かた)くなく、薩長恐るるに足らず、と洩らしたともいいます。 新政府はこれを妨害しようとしますが成功せず、逆に西郷隆盛は、津田に辞を低くして経綸を問い、郡県制度、徴兵令の必要を聞いて、津田を首相に推薦して改革を実行しよう、とまで言います。 胸中一片の私心もこだわりもなく、優れた人間への尊敬と、国事しかない西郷の真面目躍如(しんめんもくやくじょ)たるものがあります。 西郷はこれを実行して津田を「首相」に推奨したのですが、藩閥政府でそんな意見が通るはずもなく、津田に食言の罪を謝したといいます。 新政府は、明治四年廃藩置県を決定し、五年には「全国募兵の詔(みことのり)」で徴兵制が施行されます。 薩長史観ではもとよりその背景は隠されていますが、和歌山の改革をこのまま放置できないので、改革の先取りをする必要のあったことは十分想像できます。 陸奥の失望、挫折も想像にあまりますが、陸奥は反対する部下を抑え、軍を解(と)いて新政府に帰順します。 新設された強力な権限を有する大蔵省は、薩長出身でない津田出、浜口梧陵、陸軍の幹部に紀州軍の岡本柳之助、鳥尾小弥太も登用されますが、それも一時の紀州懐柔のためで、明治政府はやがてその人々も疎外し、藩閥で固められていきます。 (6)「話せる男」西郷隆盛 生涯を「誠」で貫き通した男 (産経新聞2002年4月6日掲載) 明治維新とその人物を語る時、あるいは日本人というものを語る時、西郷隆盛という人物を語らないわけにはいきません。 西郷は明治十年に反乱軍にかつがれ、敗れて故郷の城山で割腹しますが、今に至るまで、日本人で西郷を惜しみこそすれ、誰一人西郷を憎み、謗(そし)る人はいません。 日本人というものが、西欧人とも、また中国、韓国の人とも違う何らかのアイデンティティーを持っているとすれば「西郷を好きだ」ということもそれを考える一つの基準になるかもしれません。 それは西郷が西南戦争で賊軍だった時からそうでした。その時政府軍が歌った軍歌は 敵の大将たる者は古今無双の英雄で、これに従うつわものは共に剽悍(ひょうかん)決死の士… と歌っています。そして、これも西郷の敵側であった熊本地方の豪傑節は 西郷隆盛や 話せる男 国のためなら 死ねと言うた と歌っています。 征韓論が政策論として非現実的なものであったとか、無益の反乱を起こして同胞相殺す戦いをしたとかいう点は、誰も問題にせず、日本人の心の底にある価値観、つまり、古来の東洋思想、武士道、愛国心、そしてそのすべてを貫く「誠」という点について誰も疑いを持たない純粋な人物として敬愛されているのです。 西郷の言動はよく記録されているので、西郷神話や虚像ではありません。 現在でも手に触れることのできる書軸の筆勢も、そこに表明された心事も、超一級品です。 世上の毀誉(きよ)(世間の評判) 軽き事塵(ちり)に似たり 眼前の白事偽か真か 追思す孤島幽囚の楽しみ 今人(こんじん)在らず古人在り 維新の志士達は幾度か迫害を受けて死地をくぐり抜けています。西郷の島流しも酷いものでした。壁がなく格子だけの吹きさらしの豚小屋のような二坪の牢獄で、西郷の健康はみるみる衰えますが、西郷は常に端座黙想していたといいます。 この時のことを回想して「孤島幽囚の楽しみ」と言っているのです。 心の中では何を考えているかわからない今の人など相手にせず、古(いにしえ)の哲人達を相手にしていれば良かったから楽しかった、というのです。普通人とは次元の違う達人です。 西郷を最も良く理解していたのは勝海舟でした。勝は、西郷がまだ低い身分だった頃から、将来幕府を倒すのは西郷だろうと言っていましたが、はたしてその通りとなりました。 勝があまりに西郷をほめるので、坂本竜馬は勝から紹介状を貰(もら)って鹿児島まで会いに行きます。 そして帰って曰く「なるほど西郷という奴は大きな鐘のような奴だ。小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」。どんな小さな事でも謹直に糞真面目に反応する。だから大きな事はわからないかと思うと、どんな大きな事でも立派に反応する見識がある。そういう人だというのです。これを聞いて勝は「坂本もなかなか人を見る目のある奴だ」と言っています。 この西郷が官軍を代表し、徳川側を代表する勝との間で、江戸城の平和的引き渡しをしたのが、歴史の白熱する瞬間です。 これで江戸百万の市民は戦火を免れ、徳川の幕臣は生活の場を得ます。それよりも何よりも、日本国内の分裂に乗じようと爪牙を研いでいる帝国主義列強の干渉を排し、日本の独立と領土の保全を果たします。 西郷は、英国からの援助の申し入れに対して、日本のことで外国に援助をして貰うような恥ずかしいことはとうていできない、と断り、勝はロシアからの資金援助を断っています。 後年清国の李鴻章がロシアから賄賂(わいろ)を取って満州駐兵を許したのが清朝瓦解の大きな契機となったことを思うと、日本がこの時期にかくも傑出した人物二人を持った幸運に改めて想いを致さざるを得ません。 西郷は、維新後は当然に権力の中枢に入りますが、新たな権力者達が権力の維持と特権の享受に汲々(きゆうきゆう)としているのを見て、維新の志士達が命を捨てたのは、こんな世の中にするためだったのかと、怏々(おうおう)として楽しまないものがありました。 そこに征韓論が起こると、ここでもう一度国民の気持ちを引き締める機会がきたと奮い立ちます。 しかし、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允などは、日本近代化が優先課題で、征韓の余裕などないと反対し、西郷は、板垣退助、江藤新平などと共に政府を去ります。 その後は故郷鹿児島に帰り、兎を逐(お)って悠々と隠退生活に入ります。 しかし、その頃から、特権を奪われた旧士族の不満反乱が相次ぎ、また新しい地租に反対する農民運動も起こり、さらに薩長専制政府に反撥する自由民権運動も加わり、全国騒然とする中で、期待は翕然(きゆうぜん)として西郷に聚(あつま)り、それを受けて鹿児島の士族が反乱の旗を掲げます。 もとよりそれは西郷の意図ではなく、報を聞いて「しまった」と言っていますが、その後は、西郷を敬愛する部下の言いなりになって、一言も作戦の指揮などせず、従容として運命に身を任せて死にます。 (7)【土佐のいごっそう】 デモクラシーの先駆者、板垣退助 (産経新聞2002年4月8日掲載) 狷(けん)者というのは、ヘソ曲がりのことで日本語ではあまり良い意味ではありません。 しかし孔子は論語で、ちょうど良い人間というのはなかなか得られないのだから、それならば「必ず、狂か狷」が良いと言い、狂者は他人(ひと)のしないことをする人であり、狷者や皆がすることでも、いや俺だけはしない、という所のある人だと説明しています。 土佐のいごっそうというのは、まさに狷者です。皆のするようにはうまく立ち回れず損をするという不器用な面があります。 維新の過程で、討幕の力の基礎である薩長連合を作ったのは土佐の坂本竜馬、薩長軍と並んで東北に転戦して武勲を挙げたのは板垣退助と、薩長に次ぐ維新の功労者を出しながら、藩閥政府の中枢には誰も残っていません。 板垣退助は、ある意味ではいごっそうの典型と言えます。 極端な潔癖症で、他人の茶碗を使うのがいやで自分の茶碗を持ち歩いたといいますが、その潔癖さで武士的教育を額面通り実行しました。 「目に利を見ず、耳に利を聞かず、心に利を思わず、ただ武を磨き、恥を知る心を養うことをもって武士の本分」としていました。 孔子のいう「利を見て義を思い(自分の得になることを見れば、それに飛びつかず、まずそれが義にかなっているかどうかを考える)」を実践し、無類の「お人よし」と呼ばれ、維新の功臣でありながら、一生赤貧に甘んじていました。 この板垣が日本のデモクラシーの先駆者となるのです。 板垣は生粋の軍人です。 佐幕派の牙城会津攻めの時は、土佐の兵を率いていました。 攻める側も守る側もほぼ同数の三千人。ただでさえ城壁によって守る防御側が有利ですが、板垣が心配したのは会津藩の町人や農民が一緒に戦えば、官軍に勝ち目はないことでした。 ところが戦争が始まると一般人は皆荷物を背負って逃げてしまいました。 そこで板垣が考えたのは、それは江戸時代に侍が庶民と苦楽を共にしていないから、いざという時に苦しみを共にして貰(もら)えないのだ、今や帝国主義時代で日本は何時列強の侵略を受けるかわからない、四民平等になって一致して国を守らねばならない、ということでした。 (これからすると、「板垣死すとも自由は死せず」ってぇのは、トント胡散臭いですわなぁw) これは戦後の左翼偏向史観が目を背(そむ)けて語ろうとしないところですが、明治の自由民権論者は、板垣から中江兆民に至るまで、愛国主義、国権主義でした。 それは帝国主義時代に日本の国を守らねばならない、という緊張感があったからです。 軍事上の勝敗というのは、議論を許さない厳しい結果が出ます。 その結果を見て、封建主義の根本的な問題点をここまで見抜いた洞察力と、それを一生変えない問題意識として自由民権運動を推進した信念の力には感嘆すべきものがあります。 板垣は西郷を深く敬愛していました。 維新で、いや日本史上誰が最も純粋な人物かと言えばこの二人を措(お)いてないのですから、意気投合したのも当然です。 後年板垣は西郷を評して「維新三傑といっても、西郷と、木戸、大久保との間には零(ゼロ)が幾つあるかわからない。まるで算盤(そろばん)の桁(けた)が違う」と言っています。 (司馬遼太郎の評価とは、真逆だねぇw 「坂の上の雲」では大久保利通を持ち上げ(再評価かな?w)ていたしなぁ) 明治六年征韓論に敗れてそれぞれの故郷に帰る時、板垣は、民選議院--政府の任命でなく選挙で選ぶ議院、つまり今の議会制度--の設置を生涯の目標にすると述べ、西郷は手を打ってこれを励ましたといいます。 土佐に帰った板垣は、明治七年一月、民選議院設立の建白書を出します。 その冒頭板垣は、今の日本の政治権力は天皇にも人民にもなく、官僚にあると指摘します。 そして国民は税金を払う以上その使途に発言権を有するという民主主義の基本から説き起こし、日本の民度ではまだ議会政治は無理だという論に対して、人民を教育するには、まず議会を持たした方が良いと反論しています。 今なら当たり前の議論ですが、無知な人民に選挙権を与えて果たして良い政治になるだろうかという議論は、憲法発布と議会の開設、制限選挙の撤廃、婦人参政権、そして植民地の自治、独立容認のあらゆる局面で過去二百年繰り返し論じられた問題です。 そして板垣は愛国公党という政党を設立しますが、これが後の自由党、政友会、自由民主党という大河の源流となります。 おりしも、木戸も政府を離れて、孤立してしまった大久保の下の政府は、木戸と板垣を中央に迎え入れる妥協をして、明治八年、漸進的に立憲政体に向かう方向を詔勅で明らかにし、将来の上院を想定した元老院を設けます。 陸奥は、板垣の建白書と時を同じくして、薩長専制を痛撃する『日本人』という大論文を書き、官途を辞していましたが、板垣と共に元老院議員に任命されて、元老院による中央権力の抑制という議会本来の機能の強化に努力します。 しかし、保守派の抵抗は強く、また政府も木戸、板垣の中央復帰を得た以上もう譲歩の必要もなく、陸奥らの努力は挫折して少しも進展のないまま、西南戦争を迎えます。 (8)【日本のデモクラシーの源泉】 独断を排した聖徳太子の思想 (産経新聞2002年4月9日掲載) 日本の政治の近代化は明治維新に始まる--それは大筋としてはそれで良いのでしょう。 しかし、政治というものは、民族の体質(=constitution=憲法)ともいうべきもので、その背後には歴史と伝統があります。 戦後の日本の民主主義がかくも確立している背後には、明治の自由民権運動から大正デモクラシーに至る歴史があったように、明治の近代化の背後にも長い民族の歴史の伝統があるといえるかもしれません。 日本の歴史を辿(たど)って見ると、大陸の中国、韓国とはどこか違う独特の発展が散見されます。 アングロ・サクソンのデモクラシーの淵源として時々引用されるのは、タキトゥスのゲルマン人の描写です。 「大したことのない場合は首長が決定する。重要な問題はコミュニティー全 体が決める」 ところが不思議なことに聖徳太子の憲法の最後、第十七条に「独りで決定してはいけない。小さな問題は軽いことであるから必ずしも皆と相談しなくても良いが、大きな問題は、間違いがあってはいけないから、皆と議論すれば妥当な線が出てくる」とあります。 (十七に曰く、それ事は独り断(さだ)むべからず、必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)ふべし。) (ところが)中国の古典では、独断は良い意味です。 十七条の憲法の「独断」という言葉の原点と言われている管子は「明主はひろく聞いて独断す」と言い、韓非子は「よく独断する人こそ天下の指導者にふさわしい」と言っているのですから、「不可独断」と言い切った聖徳太子の思想は、東洋思想の中で独創的とも言えます。 それがデモクラシーに発展する制度の進化の歴史は伴っていませんが、少なくとも、現在に至る日本の政策決定はコンセンサス方式の傾向が強いことの一つの歴史的背景と言えましょう。 日本の封建主義制度がアジア大陸よりヨーロッパ中世に似ていることは度々指摘されることですが、北条時代の善政は、後々まで武家政治の鑑(かがみ)となっています。 裁判では十三人の評定衆が起請文(きしょうもん)を書いて、決して私的感情に(おぼ)溺れず、権力者を恐れず、判決決定後は少数意見の者もこれに従うことを誓いました。 (「一揆」の本来の意味) (東洋の賢人皇帝の人治ではなく、欧州大陸法のいう「法治主義」とその英米法系表現である rule of law の訳語たる)法の支配、法の下の平等はデモクラシーの基本原則ですが、たしかに日本の社会には伝統的な遵法(じゅんぽう)精神があるようです。 こうしてみると、万機公論に決すべし、という五箇条の御誓文の思想も、ただ西欧思想を輸入しただけでなく、これを受け入れる文明の伝統が日本人の中にあったということもできましょう。 ところが、この維新当初の清新な期待はやがて藩閥専制で裏切られます。 板垣は「維新の新政府は公議世論を重んじることをその大方針として、徳川の専制を廃して公明、自由の政治を標榜(ひょうぼう)した。ところがこの維新の改革を途中でやめて、公議世論を無視して、官僚による専制を復活したことに対して公憤が爆発した。これを自由民権運動というのである」と自由民権運動を定義しています。 西南戦争が勃発(ぼっぱつ)して、板垣も陸奥も明治政府の転覆を夢見ます。 土佐も西郷に呼応して蜂起を考えますが、意気盛んなばかりで具体性のない、いごっそう達の計画で、中途半端に終わります。 そして、この計画に加担した陸奥は反逆罪で逮捕収監されます。 土佐派としては累を板垣にまで及ばせないために、陸奥については事実を認めたこともあったらしいのですが、この陸奥への借りを土佐の人は決して忘れませんでした。 そして、議会開設後、陸奥と土佐の自由党とを結ぶ強いパイプは、日本の議会政治運用のための不可欠の要素となります。 西南戦争が西郷の敗北に終わると、武力による明治政府反抗の見通しは失われ、代わって、明治十一年以降議会民主主義の達成を目指す自由民権運動が土佐を中心に全国に広がっていきます。 そして、明治十三年に北海道開発をめぐるスキャンダルを契機に、専制政治反対の世論が沸騰し騒然としてきます。 明治十四年、板垣を総理とする自由党が結成され、翌十五年には大隈重信を総理として改進党が発足します。 その時の板垣の思想は明治十五年の「自由党の尊王論」に端的に表現されています。 「最近のシナ、ロシア、トルコを見ると、帝王は奢(おご)り高ぶって人民を 軽侮し、人民は帝王を恐れ、あるいは恨んでいる。帝王は野蛮で人民は卑 屈である。 しかし英国では人民は自由であり、帝王、人民共に国を愛している。 自由党は、日本の天皇がシナ、トルコ、ロシアのようになってはいけない と思うのである。自由党は、そのために、自由を主張し、政党を組織し、 国事に奔走しているのである。自由党ほどの尊王家はないのである」 民党なるものは、徒党をなして政府に反抗しようとする不忠不孝の輩(やから)であるという誹謗(ひぼう)中傷に対抗するための論でありますが、板垣の自由民権論は、いかに日本を良い国にするか、という国を愛する気持ちから出発していることを示す大文章です。 ジャンル別一覧
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